白瀬南極探検記念館と白瀬矗氏(探検隊長・海軍中尉)について
 平沢支部長 工藤兼勝
昭和シェル社友会ホームページ5月号のトップページは「白瀬南極探検隊記念館」の写真を掲載させて戴きました。
 平沢支部の所在する「にかほ市」は、面積241㎢で秋田県でも2番目に小さい市です。南には名峰鳥海山を望み、北には広大な日本海が広らける山水豊かな街です。
白瀬南極探検隊記念館と白瀬矗氏の名前は、秋田県では広く知られていますが、全国的にはあまり知られていないようですが「南極観測船しらせ」と言うと思い浮かべる方もおられると思います。
ここでは、「白瀬南極探検隊記念館」、「南極探検隊」、「白瀬矗氏」について紹介させていただきます。
1.白瀬南極探検隊記念館の内部の展示の紹介:
1) 会館の入口では、早速実物大のペンギン2羽の歓迎を受けます。
2) 会館内部では、白瀬矗氏の紹介動画から始まります。
  ①金浦港の状景
  ②生家(浄土宗のお寺:浄蓮寺)
  ③白瀬矗氏のお墓、白瀬氏の像とペンギンの像
3) そして南極探検隊に使用された船の内部を復元したものもあります。
4) 白瀬矗氏と隊員の探検の足跡の展示
5) 探検隊の装備:毛皮の防寒具はまだしも、靴やテントは酷く可哀そうです。(-20℃以下)
6) 血判状:探検隊参加隊員10名の誓約と血判からなります。
7) 開南丸の模型(204t)が、スコット隊テラノバ号(744t)、アムンセン隊フラム号(402t)の写真と並べられている。開南丸が規模も馬力もいかに小さかったが分かる。
8) 狭い船内、荒れ狂う海で心身ともに隊員はギリギリだったようです。(停泊港のシドニーでは、船員が、日本へ戻ろうと反乱を起こしたが、野村直吉船長に宥められ沈静したそうです。)
9) 野村直吉船長については、船員16名を統率して往復路無事航海したことが簡単に説明されています。
10) 隕石コーナー:「南極は隕石の宝庫」と言われ、多くの隕石が陳列されています。白い氷原の上に高さ1m位の隕石がポツンと立っている写真には驚きました。
11) オーロラドーム:中央の「氷山」と「南極探検の偉業」を表現している円錐状建物の内部にあります。オーロラは円錐内部の天井から凹面の壁面に投影されます。南極と北極でみられるオーロラが数多く映し出され音響効果もすごいです。(これには本当に凄く圧倒されました)

2.白瀬南極探検隊記念館館外の様子:
1) 会館の位置は、竹嶋潟と観音潟の2つを眼鏡型に中心とする、秋田県で最初に桜の開花で有名な勢至公園の北東の一角にあります。
2) 竹嶋潟には、実物大の開南丸の模型が浮かび、周囲には、ペンギンや鯨の遊
具があります。

3.白瀬矗氏の生涯と南極探検:
1) 氏は1861年、秋田県にかほ市金浦にある浄蓮寺の長男として生まれました。
 (金浦は、秋田県の南部では、最大の漁獲港として知られ、海に志す人が多い処です。)
2) 幼少時から探検家を志し、18歳の時、「僧職では探検が出来ない。」と弟に僧職を譲り軍人になりました。
3) 当初、北極探検を目指したが、1909年(明治42年)4月6日、米国の探検家ピアリーが北極点踏破成功の報を受け、大きなショックを受け、その後目標を南極探検に切り替えました。
4) 1910年(明治43年)、帝国議会の議決を経て、7月5日「南極探検後援会:会長 大隈重信伯爵」が設立され、11月21日、東郷平八郎元帥により「南極探検船・開南丸」と命名されました。11月28日、盛大な出航記念式典が行われ、翌29日に芝浦港を出航しました。
5) 1911年(明治44年)5月1日、オーストラリア・シドニーに入港。11月19日同港を出航。
 1911年12月14日アムンセン隊(ノルウエー)が前人未踏の南極点をついに踏破。
 1912年1月16日、開南丸は南極ロス海ホエールベイ(鯨湾)に到着
 1912年1月17日、スコット隊(英国)も南極点を踏破。帰途、全員遭難死。
 1912年1月20日、白瀬隊長ら5名の突進隊が28頭の犬が引く2台の犬橇で南極点に向かう。
 1912年1月28日、走行距離282kmの地点で突進を中止し、南緯80度05分の地点に日章旗を立て、視野に入る全地域を「大和雪原」と命名し、日本領土とすることを宣言しました。
6) 1912年2月、探検隊は帰国の途につき、6月20日芝浦港に到着しました。歓迎式には、約5万人の熱狂的な市民や学生などが集まりました。
7) 白瀬矗氏は、日本初の南極探検上陸を成し遂げたこと、1人の犠牲者も無く27名全員無事に帰国でき、決して無理な強行をしなかったこと、などが評価されています。
8) 晩年は愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)で静かに過ごしたようです。
9) (私感)なぜ、当時の未だ十分な技術も発達していなかった1912年に幾多の困難を乗り越えて南極探検に挑んだかと言うと、
①白瀬矗氏自身の冒険心があった
②明治の「脱亜論」「欧米の先進国に追いつき・追い越せ」の明治政府の気持ち(大隈重信候や東郷平八郎元帥などが後押し)
③海に囲まれた海洋国として先進の精神(英国、ノルウエー共に海洋国)など時代の意欲が影響していたと深く思っています。

4.白瀬矗氏の魂を継ぐ者たち:
1) 金浦町では毎年1月28日、金浦小中学校の生徒約150名が、南極探検隊の偉業を祈念し讃え約2kmの雪中行進を実施しています。これには日本財団 海洋少年団金浦隊の少年たちも含まれますが、彼らの中数名が、将来「南極観測船」に乗り、南極に行きたいとの希望を持っているそうです。
2) その一人に、にかほ市出身の佐藤弘康(36歳)さんがいます。彼は、少年時代から白瀬矗氏や南極探検隊にあこがれ、大学卒業後、南極に行ける業務をしている会社に就職し、61次~63次南極観測隊員として赴き「海洋生態系モニタリング観測・分析研究」を担当しています。
3) 2021年の「植村直美賞」に、冒険家の阿部雅龍(39歳)が選ばれました。
阿部さんは、2020昨年11月から前人未到の「白瀬ルート」による約1300キロに及ぶ南極点単独徒歩到達に挑戦しました。2021年1月にコロナ禍の影響による活動期間短縮や天候の悪化などにより約780km地点で断念したが最難関ルートで夢
に挑む勇気と行動力が評価されました。

大変雑多な説明ですみません。「白瀬南極探検隊記念館」と平沢支部の所在する「にかほ市」についていささかでもご理解戴ければと願っています。