コーラスが繋いだ35年(1)
「昭和シェルコーラスの時代」
― 諸井先生との出会い ―

関東支部 小川(勝)さん 
 


昭和シェル石油が合併発足したばかりの1985年1月、当時コーラス部顧問の小沼取締役から入部を勧められたのがきっかけで、「昭和シェルコーラス部」と私との縁が始まった。会社を退職しても、「MSアンサンブル」と名前を変えた後までも関わり、35年が過ぎた。記憶を辿りながら、コーラスを道連れにしてきた年月を振り返ってみたい。


諸井昭ニ先生 指揮者生活50周年記念
1998年4月4日


まず思い起すのは諸井先生との出会いである。合唱指導の諸井昭二先生は当時55歳、日本の合唱界では重鎮のお一人であった。複数の合唱団の指導をなされていたし、作曲や編曲の作品も多い。穏やかでいつも優しく接していただいた。怒った様子を見せたことが無い。内心では云いたいことも沢山あっただろうと今にして思うのだが。日本語の発音にはうるさかった。「日本人ならそんな歌い方はしない」と怒られたことを思い出す。当時よく歌われていたJ₋ポップス系などの合唱編曲も多く、「翼をください」「空よ」などは今でも愛唱している。

先生と出合うことが無ければ、私のコーラスはとうの昔に終っていたかもしれない。練習中に特に合唱に関してあれこれ仰ることはない、いうなれば昔の職人修行みたいに師匠の背中を見て覚えろ、というタイプだったかもしれない。だからこそ、ついてこられたのかもしれないと思う。先生が亡くなられるまで28年間もお世話になった。合併以前のシェルコーラスにも20年以上関わっておられたのでコーラス部としては通算50年もお世話になったことになる。

当時のコーラス部は6月の東京都合唱祭出場と秋の定期演奏会を演奏ステージとし、これらを軸に年間の活動が組まれていた。社内のイベントや、シェルジャパン社長邸でのクリスマス聖歌隊にかり出されることもあった。夏には野尻湖での合宿や練習抜きの旅行などなど、ハーモニーにはまず「心のハーモニーから」などと勝手な理屈を並べていた。

コーラス部員20名ぐらい。練習は霞が関ビル12階にサークル共有の部室があり、毎週木曜日午後6時からコーラス部が使わせていただいた。練習が終われば、近くの店で反省会と称してまず一杯、というのが慣例となっていたが、このあたりの話は後ほど触れることになろう。


定期演奏会(プラザホール)1993年11月9日

 定期演奏会は霞が関ビル1階の「プラザホール」で開いた。200席くらいは用意できたと思うが、ほとんど社員ではあったが毎回満席に近い聴衆に恵まれた。毎回5ステージ、うち女声合唱と男声合唱が各1ステージ歌い、全体で1時間半ぐらいの公演であった。指揮者も、歌い手もまだまだ若く、合唱は荒削りながら元気があった。

1997年本社のお台場移転後の定演は、お台場の会議室で開かれたが、その頃は部員の減少もあり、2001年を最後として定期演奏会は終焉した。


MSアンサンブル時代については次回でご紹介したい。

(2020年12月15日)