邂逅(かいこう)
今岡さん 

長いサラリーマンの現役時代を通してみると、予期せぬ巡り合いやおかしな鉢合わせが多々あるものです。私もご多分に漏れず、色々と経験しましたが、今でも懐かしく思い出す邂逅をいくつか拾い上げ、思い出すままに記して皆様の酒の肴に供したいと思います。  

七奉行と政治談議 
1980年代後半の東京業務センターでは年2回油槽所長会議を開き、たまには会議の翌日懇親ゴルフ会を開催していました。それは1987年春先の茨城県のとあるゴルフ場での出来事でした。ゴルフ場は営業中にも拘わらず閑散とした情景で、あたかも我々のパーティーの貸し切り同然の状況でしたが、異様な空気感に包まれたのはプレー後の浴場でした。実は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの小渕恵三、 梶山静六、 橋本龍太郎等の竹下派の経世会の七奉行の面々と浴場の脱衣所で鉢合わせしたのです。どことなくギクシャクした雰囲気の中、勇敢な所長などは浴槽に浸りながら政治談議を持ち掛ける有様でした。腹黒いかどうかは別として、政治家になると腹に自ずと何かが溜まるのでしょうか、先生方はおしなべて同じような体型で、背はそんなに高くなく、お腹がポッコリタイプで、田舎のおっさん然とした風采でした。
ゴルフ場が半ばクローズ状態である状況にプレー中疑念を抱いていましたが、浴場で先生方に鉢合わせした時にその謎が解けたような気がしました。クラブハウスのエントランスに並ぶ10台以上の黒塗りの車がいかにも高飛車的であったのが今でも脳裏を離れません。   

奢れるもの久しからず 
合併前の1984年大阪業務勤務時代の大阪ミナミのクラブでの鉢合わせです。協力会社の知人と二人でとあるクラブで寛いでいたところ、肩で風を切る感じで一人の関取が入ってきました。特徴ある風貌からすぐ大関朝潮太郎(4代)だと分かりましたが、当時耳目を集めていたスターだけに、数名のホステスが我先にと黄色い声を張り上げながら大関の席に群がっていきました。お蔭でこちらは急に座が白けてしまい、早々に引き上げてしまいました。当時の朝潮は大関として君臨し、怖いもの知らずの絶頂時で、クラブママによれば「場所中にもよくいらっしゃいますよ」とのこと。
朝潮は当時横綱昇格に何度も挑戦していましたが、「奢れるもの久しからず」の故事にもある通り、驕りがあったのでしょうか、それに稽古不足もてつだって、次第に勢いが萎えて大関止まりで数年後には引退しています。同門の朝乃山のコロナ下の不謹慎な振る舞いなど同じ血を継承しているようで、先が思いやられます。

南鳥島での抑留 
1971年直売部からの要請でジェット燃料の自衛隊納入に伴う事務処理の関連で、納入先の硫黄島と南鳥島に飛ぶ役目を担いました。受け取った日程では下総航空基地から飛び立つYS11M(YS11の改造機)で出かけ、硫黄島で一泊後、南鳥島経由で帰還する予定となっていました。
下総と両島を結ぶYS11Mのフライトサービスは当時1週間に一度の頻度で、この便を逃すと1週間待ちぼうけを食らうことになります。半ば物見雄山の気分で出かけ、硫黄島では現地の自衛隊スタッフから摺鉢山などに残存する塹壕跡などを案内して頂きました。あの壮絶なる日米の死闘があった場所に佇まい、今の平和を噛みしめたものです。トラブルは翌日南鳥島から帰還する段になって起こりました。実は、当該機のYS11Mの搭乗員名簿に私の名前がなく、搭乗を拒否されてしまったのです。現地スタッフが下総基地と確認した結果、私の帰還便は1週間後のフライトとのことで、話が違うので、直売部を通して善処方をお願いしても埒が明かず、結果的には南鳥島に1週間抑留される結果となりました。
  その間は手持ちぶたさで、荷役受け入れ準備のお手伝いをしたり、珊瑚礁で出来た砂浜を散策したりして時間をつぶしましたが、夜ともなると食堂に集まっては自衛隊員や気象庁の職員、それに米軍のコーストガードの連中と酒を酌み交わすのが日課でした。ウイスキーのビール割であるバクダンを無理やり飲まされて閉口しました。 

鳶が鷹を生む 
S氏は私の大学1年後輩で学科も国文科でしたが、なぜか英語に興味があって、ESS(Eating & Sleeping Society?)などのクラブ活動には積極的に参加し、一緒に行動した懐かしい思い出があります。学科が違い、1年後輩でもあったので、彼の卒業後の進路など知る由もありませんでしたが、私が入社して相当の年月が経ってから、彼も同じ会社の釜の飯を食っていることを知り、その奇遇に驚きました。但し、彼は営業畑で静岡や福岡などの支店勤務が長かったので、仕事面やプライベートの面で相まみえるチャンスもなく過ぎてしまいました。
実は知る人ぞ知る、彼のお嬢さんはシンガーソングライターからスタートしその名をとどろかせ、NHKの大晦日の紅白歌合戦などにも数回出演している著名な個性あるボーカリストです。彼女の音楽活動における輝かしい活躍と長いキャリアに敬意を表して、「鳶が鷹を生む」という故事をS氏に捧げたいと思いますが、彼も納得して喜んで受け止めてくれることでしょう。  

 ( 2022年2月15日HP掲載)