なぜ平沢製油所は長く存続できたか 
 平沢支部長 工藤兼勝 
 平沢製油所は昭和6年に新津恒吉氏が秋田県平沢に製油所を開設し、その後、新津石油、昭和石油(昭和17年に旭石油、早山石油、新津石油が合併)となり、戦中、戦後を通じて国産原油を処理する製油所として昭和43年3月の製油所閉鎖まで日本の石油産業を支えてきました。
 平沢製油所の歴史(アーカイブ)として以前、社友会HPに
「平沢製油所物語」(←クリックするとリンクします) を掲載させて戴きました。
 この記事について、社友会会員から、海外から原油も輸入できない小さな平沢製油所が、長く存続した理由について説明不足とのご指摘を戴きました。浅学な小生を顧みず、以下に不十分ながら述べさせて戴きます。(誤りがありましたらご指摘願います。)

 平沢製油所が長く存続した大きな理由は、当時国産原油の殆どがパラフィン系原油であったのに対し、院内原油は世界的にも稀なナフテン系原油であったことによると思われます。世界的にも輸入原油の殆どはパラフィン系原油で、WAXを多く含むため流動点が高く寒冷地向けには適していなかったと思われます。(ベネズエラ原油を除いて)。
 その後、太平洋側の製油所が次々と再開され、脱蝋技術や脱蝋装置も発達して稼働したため、小規模な平沢製油所は院内原油の産出減少に伴って閉鎖に到りました。
 詳細は、当時の中央技術研究所で、工学博士で在られる藤田稔様が、院内原油を基に、日立製作所に納入するトランス油の開発にご尽力され、日本でも最難関と称された日立規格に合格されました経緯を著わされた、
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 日立製作所へのトランス油の納入を契機に、寒冷地向けとして、他用途にも採用が広まり、院内原油生産が細まるまで平沢製油所は稼働し続けました。他の用途としては、寒冷地向け高圧ケーブル油、アルミ圧延油、寒冷地向け(ディーゼル)エンジン油などがありました。
 また、平沢製油所固有の精油装置が活用された例もあります。それは、ヘックマン式単独蒸留装置で、狭留分「ナローカット」油が必要とされた「アルミ圧延油」などで、他にも1~2応用例があったと記憶しています。
 以上をもちまして、先の「平沢製油所物語」の説明不足に対する補足とさせて下さい。

 多分これが、平沢支部長としてのHPへの最後の掲載となりますので、よろしくお願いいたします。

社史「昭和石油物語」66ページ 全盛時の平沢製油所
  鉄道よもやま話

平沢製油所は羽越本線の羽後平沢駅に隣接して上の写真のように石油製品の出荷用の引き込み線がありました。 
羽後平沢駅(開業時は羽後平澤駅、当時は秋田県由比郡平沢町)の竣工は、大正10年(1921年)12月と古く、陸羽西線象潟~羽後本荘間の開通に伴い大正11年6月に駅は開業しています。
その後、大正14年に新潟県新津と秋田間が全線開通して線名は羽越本線になり、昭和6年の平沢製油所の操業開始時には、東京や関西と鉄道網がつながっていました。
平沢製油所が昭和43年(1968年)3月に閉鎖になりましたが、丁度、同じ時期の昭和43年4月に駅名が現在の「仁賀保(にかほ)駅」に改称になっています。
これは昭和30年に町村合併により平沢町が由利郡仁賀保町になったのに合わせて駅名変更になったとのことです。

 平成7年時の旧駅舎↓
(建設時期は不明)
 平成13年からのモダンな現駅舎